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カテゴリー別アーカイブ: 田中康博の「想」シリーズ

苦難も僥倖もどちらも試練

田中 康博の「想」シリーズ。今月のお話は皆様どのように「想」われますか?

苦難も僥倖もどちらも試練

長い人生、苦難のときも、僥倖(偶然の幸運)のときもある。辛いときも楽しいときもある。
苦難のとき、辛いときはそれらに負けず一生懸命精進努力をするときである。
辛いときこそ、自分を成長させるときである。また僥倖のとき、楽しいときは、驕ることなく、
謙虚に、次の目標に向かって、新たな努力を開始するときであると。

人生には幾多の試練に遭遇する。試練に遭遇したときに、いかに処するかが重要であると想う。
試練とは苦難と僥倖の両方である。悪いときも、良いときも試練なのだ。
その試練にいかに処したかで人格の成長度が決定するように想う。

苦難に遭遇したとき、苦難に打ち負かされて、目標や夢をあきらめてしまうか、適当に妥協してしまうか。
苦難に耐えて打ち勝ち、苦難を糧として努力を積み重ねる。
どちらを選ぶかで人格者になれるか、なれないかが決定するように想う。

反対に僥倖に遭遇したとき、例えば、仕事で大成功を収め、地位や名声、財産を獲得した。
人は何と素晴らしい人生と羨むが、これも試練の一つ。
成功の結果、地位に驕り、名声に酔い、財に溺れ、日々の努力を怠るか、成功を糧に更に気高い目標を掲げ、
謙虚に努力を重ねていくか、どちらを選ぶかで人格者になれるか、なれないかが決定するように想う。

・・・・いかがであろうか

田中 康博(たなか やすひろ)
長年、大日本スクリーン(現スクリーンホールディングス)で半導体製造装置の開発・設計に従事。
現在は技術系会社数社の顧問に就任。
また、PRO-SEEDの技術顧問、ヒューマンアカデミーロボット教室:彦根インター教室の校長を務める。

刺身の つま

田中 康博の「想」シリーズ。今月のお話は皆様どのように「想」われますか?

刺身の つま

私は肉より魚が好きで、特に刺身が大好物である。魚をさばいて自分で料理するときもある。とにかく酒の肴は刺身にかぎる。
刺身はスーパーやデパ地下でもパックにして販売されている。そのパックを買った時いつも思うことがある。それは刺身の つま が実に多く入っている事である。
刺身の量の3倍くらいは入っていると思う。

刺身の つま は一般的に大根が使われている。この つま は素晴らしい効果があるそうだ。冷蔵・冷凍技術の向上した現在では食中毒の心配はそれほどないが、
昔は殺菌効果のために つま を添えたとも言われている。大根は殺菌作用の強い野菜だそうだ。また、魚の臭みや味を口から消し、次の料理を美味しく食べるためにも つま は効果的であるという。
また、刺身から出る水分を吸収し、刺身がベトベトになることも防ぐ。刺身につまが添えられているのはそういったことを考慮した日本人の知恵によるもので、素晴らしい文化だといえる。

しかし、パックにして販売している刺身の下に敷いている つま は実に量が多い。さらに盛り直すとしても、そんなに多くは必要ない。
売る側の考えとして、パックトレーにちょこっと盛られた小さな刺身をボリュームたっぷりに見せかけることも良く分かるが、あの多量の つま を残さず、完璧に食べている人は少ないと思う。
大半の量は捨てられていると思う。これは「もったいない」ことだ。

つまの多くは大根で、大根も不作のときは、価格が高騰する。その時は、刺身のパックの値段を従来通りに据え置くことは大変なことだと思う。

そういったことから、この際、全刺身パック販売業者が申し合わせて、つまの量を少なくして、刺身パックの価格を下げたらどうだろうか。
どこかの販売業者が先駆けて趣旨を説明してやってもいい。消費者は必ず賛同すると想うのだが。

・・・・いかがであろうか。

田中 康博(たなか やすひろ)
長年、大日本スクリーン(現スクリーンホールディングス)で半導体製造装置の開発・設計に従事。
現在は技術系会社数社の顧問に就任。
また、PRO-SEEDの技術顧問、ヒューマンアカデミーロボット教室:彦根インター教室の校長を務める。

光輝くものにも二種類ある

5月より弊社の技術顧問に就任されました、田中康博様の「想シリーズ」を連載していきます。
これまでの技術者として歩んでこられた経験、人生についての心構えなど
私たちにとってたくさんの「学び」につながるお話。
毎月連載していきますので、御覧頂けますと幸いで御座います。

光輝くものにも二種類ある

「箔をつける」という言葉がある。これは普通の地金に、金や銀や錫といった高価な金属を薄く伸ばして押し付けることをいう。箔を押すともいう。
このことを転じて、人を重んじるように外面的に何かを付加したことを意味し、値打ちや貫禄があがることに使う。普通の地金に金や銀で箔をつけたら、当然光り輝き立派に見える。

一方、磨きあげた包丁や刀も光輝いている。そしてこれはその地金そのものが、中身と外身が一体で光り輝いている。磨きあげるとは、どういうことだろうか。錆びや汚いものを削り取り、でこぼこを平らにすることである。

 箔をつけたもの:光らないものに光るものをかぶせる。中身は何も変わっていない。

 磨きあげたもの:自らの汚いもの、醜いものを削り取る。中身も外身も正真正銘に光っている。

 

人間にも同じことが言えるのではないだろうか。己を磨くとは、自分の汚い心、醜い心を削りととることだ。削り取るとは痛みが生じるということ。痛いが自らが努力をして光輝く人間に変身することだろう。

良い服を着たり、高価な持ちものを身に着けていても、その中身である、その人の心や精神や人格が、それとつりあっているかは、一見分からない。

昔こんな歌があった。「ボロは着てても心は錦」。良い服を着るな、と言っているのではない。良い服や高価な持ち物に、つりあうように中身から光輝くようにすることが大切なのである。

しかし、磨きあげて今日、光輝いていても、そのままほっておくと、又錆びたり、汚れがつく。日々磨くことを怠れば、元の木阿弥となる。日々磨くことを、し続けることが肝心。

箔は、ある日ポロリと落ちることがある。元の地金に戻ってしまうのだ。このことを、「箔が落ちる」と言い、値打ちが下がることを意味する。立派な肩書などがなくなることも同じだろう。ポロリと落ちたら、今度は潔く磨くように切り替えたい。

・・・いかがであろうか。

田中 康博(たなか やすひろ)
長年、大日本スクリーン(現スクリーンホールディングス)で半導体製造装置の開発・設計に従事。
現在は技術系会社数社の顧問に就任。
また、PRO-SEEDの技術顧問、ヒューマンアカデミーロボット教室:彦根インター教室の校長を務める。